2005年01月08日

『幸福論』 アラン

これは1913年から1923年とか、日付が書かれてあり、
今からおよそ、80年から90年前に書かれていたそうで、
1章が1ページから1ページ半と短くて、
わかり易く書いてあるので、スイスイ読めます
シンプルに具体的に書かれているので、
気になったところを
私のために記録しておきたいと思います

楽しい時期の終わりごろになると血球の数が少なくなり、
悲しい時期の終わりごろになると再び多くなった
血が多いか少ないか、それがあの想像力による幻影の原因であった

本当の友がいないなどというより、血球が足りないと言うほうがずっといいではないか。

悲しみとは病気にすぎず、いろいろ理屈や理由を考えたりしないで、
病気としてがまんしなければならぬ、そうすれば、気に障る言葉の行列は四散してしまう。
心痛は腹痛同然にみなされる。

微笑というものは、あくび同様深く下のほうまで降り下がり、
次々と喉や肺や心臓をゆったりさせる。医者の薬箱のなかにだって、
こんなにはやく、こんなにうまいぐあいにきく薬はあるまい。

のんき者らしい格好をする人は、首をすくめることをよく知っている。
この動作は、肺の空気を入れ換え、あらゆる意味で心をしずめるものだ。
あらゆる意味でと言うのは、
心という言葉はいくつもの意味があるが、心臓は一つしかないからだ。

ただ首をすくめさえすれば、胸という鳥篭の中に閉じこめておいた心配事が飛び去ることはまちがいない。
呑みこむのと咳をするのとが同時にできないのも同じ流儀であるから、私は咳どめドロップの効用を説くのだ。
同様に、あくびをすれば、しゃっくりが止まる。だが、どうやってあくびをするか。まず、伸びや、にせのあくびなど、
あくびのまねをすることによって、うまいぐあいに本物のあくびが出るようになる。

憐れみについて
悲しんでいてはなるまい。期待をもつべきなのだ。自分のもっている希望しか、ひとにはやれない。
自然の成り行きに期待し、未来を明るく考え、そして生命が勝利を得ることを信ずることが必要だろう。
彼に与える必要があるのは、この生命の力だ。冷酷かつ無関心であっていいというのではない。
快活な友情を示すことだ。信頼こそ素晴らしい霊薬である。
情念というものはどれも、憎しみというものも悲しい。よろこびは情念をも憎しみをも、退治するだろう。
だが、さしあたっては、悲しみはけっして気高くも美しくも有用でもない。

私が親切を示すと、武装し髪をさか立てて突進してくる臆病者の心はたちまち解きほぐされてしまうのだ。
要するに、雲のように行き来する二つの気分のうち、一方がまず微笑することが必要なのである。
微笑を始めるのが断じてあなたのほうでないならば、あなたは馬鹿者にすぎない。

われわれが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最良のことはやはり自分が幸福になることだ。・・・
これは礼儀がわれわれに教えるところだ。礼儀とは外観の幸福であり、内部に対する外部の反作用によってただちに感じられる。それは不動の掟でありながら、いつでも忘れられている。だから、礼儀正しい人は、報いられるということを知らずしてただちに報いられる。

子供たちに幸福である法をしっかり教えるべきであろう。第一の規則は、現在のものにせよ過去のものにせよ、
自分の不幸の話を決して他人に話さないことだろう。頭痛だの、吐き気だの、気むずかしさだの、腹痛だのの話をすることは、たとえ言葉づかいに気をつけた場合でも、失礼なこととみなされるべきだろう。不正や誤算についても同様である。・・・愚痴をこぼすことは他人を憂鬱にするばかりだ、つまり他人がそういう打ち明け話を聞きたがり、慰めるのが好きらしい場合でさえも、結局のところは不愉快にするばかりだ、と。悲しみというものは毒のようなものだからである。

私にとってとりわけ明瞭だと思われるのは、幸福たらんと欲しなければ絶対に幸福にはなれぬということだ。



・・・さあ、図書館に返しに行こ。|出口| λ............トボトボ
posted by キャサリン♪ at 08:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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